福岡県みやこ町(旧豊津町)出身の葉山嘉樹(1894~1945)は、日本の近代文学を代表する作家である。旧制豊津中(現、育徳館高)から早大に進み、「淫売婦」「セメント樽の中の手紙」「海に生くる人々」などで彗星のように大正末の文壇に登場した。なにしろ全く無名の青年が、これらのプロレタリア文学作品でいきなり文壇の先端に躍り出たのだから、そのデビューは衝撃的だった。
「格差社会」や「無縁社会」の諸問題が噴出する今、葉山文学が再び脚光を浴びている。三人の会が2012年に刊行した論集『葉山嘉樹・真実を語る文学』(花乱社)も多くの読者を得ることができた。
長男の葉山民樹氏(87)は、4年前、みやこ町で行った講演で、「父は周りの弱い立場の人々に共感しながら作品を書いた。自らを飾らぬ人間をよしとし、実践した。父の反権威、虚飾を嫌う精神は、少年時代に故郷豊津で培われたのだろう」と語った。葉山嘉樹は、「質実剛健」という旧制豊津中の学風が育んだ作家であった。
昨年、代表作「淫売婦」の映画化というビッグニュースが届いた。戦前、戦後を通じて初めての試みであり、非常に意義深い。監督・脚本の児玉公広氏(48)は、「みやこ町を中心に北九州一円でロケを行う。“みやこ”発の映画作品として地元の方々とともに創り上げることで、葉山文学の再評価を推し進めたい」と抱負を語っている。
児玉監督は、ロケ場所のリサーチ、エキストラ出演、地元の媒体を通じた宣伝活動等を担う「映画『淫売婦(仮)』を応援する会」への参加を呼びかけている。映画のエンドロールへの氏名掲載、完成披露プレミア試写会への招待などの特典があるとのこと。


葉山嘉樹文学碑を訪れた長男民樹氏
2011年10月、みやこ町八景山(撮影・大家眞悟氏)

堺利彦・葉山嘉樹・鶴田知也の三人の偉業を顕彰する会(三人の会)

 

 文学史に残るプロレタリア作家・葉山嘉樹「淫売婦」が映画化されると聞く。
いま何故、淫売婦なのか。この作品、タイトルの意味は、女が金品を得て男に性行為を許す、それを職業とする女となる。が、この短編が名品として残り伝わるのは、痛ましく哀しい「性」を扱っていても、ひとりの女が、命を守る、それを見守る男たちがいて、ともに生き抜く「命と生」の尊い姿を描いているからだろう。
言葉がどんな映像になるのか、とても興味深い。
短編「淫売婦」は、「此作は、名古屋刑務所長、佐藤乙二氏の、好意によつて産まれ得たことを付記す。-一九二三、七、六」で始まり、「若し私が、次に書きつけて行くやうなことを、誰かから『それは事実かい、それとも幻想かい、一体どつちなんだい?』と訊ねられるとしても、私はその中のどちらだとも云い切る訳に行かない。」と続き、「今は彼女の体の上には浴衣がかけてあった。彼女は眠つてるのだろう。眼を閉ぢてゐた。私は淫売婦の代わりに殉教者を見た。彼女は、被搾取階級の一切の運命を象徴してゐるやうに見えた。私は眼に涙が一杯溜つた(略)ポトリとこぼれた。-一九二三、七、一〇、千種監獄にて」で終る。汚れ、悲惨な姿だが、そこには神の気配さえ漂う。文が、読者の心に憑き、動く、救いの力を持つ証左だろう。
葉山はデビュー作「牢獄の半日」の後、1925年(大正14)に「淫売婦」を書き、翌年「セメント樽の中の手紙」を雑誌『文芸戦線』に発表した。またプロレタリア文学の傑作といわれる『海に生くる人々』を刊行するなど大正末期、無名の青年は彗星のように文壇に登場。
この郷土作家の作品を追って、児玉公広監督(行橋市生まれ)が脚本を書く。郷土人の眼が、関東大震災(1923年9月)後に書かれた「淫売婦」を通して東日本大震災(2011年3月)後の社会不安をどう捉え、どう切りとるのか、児玉さんに注目が集る。タイトルを超えた人間の「生」を表現して欲しい。

NPO法人豊津小笠原協会理事 光畑 浩治

 私にとって葉山嘉樹さんは、福岡県京都郡豊津村(現みやこ町)の旧制豊津中学(現育徳館高校)の先輩であり、何よりも文学上の先輩である。恩師というべきかも知れないが、それ以上に、私の人間形成上特別の影響を与えられた人といった方がたしかである。
豊津村に生まれた葉山さんは、『海に生くる人々』などで知られ、小林多喜二、徳永直らと共に、戦前のプロレタリア文学を代表する作家だったが、私より十歳ほど年上だった。実をいうと葉山さんは前々から私の父の友人だった。父はこれまた葉山さんより十ばかり年かさだったが、若いころからクリスチャンであり、人並み以上の読書家だったから、当時、トルストイアンだった葉山さんにはまたとない話し相手だったのである。
葉山さんは、父と議論しながら、よく笑った。その笑い声たるや、独特の大笑いで、誰も魅了せずにはおかないものだった。私の一家は、家中に響き渡るその気持ちのいい笑い声を聞いて、浮き浮きしたものである。
ずっと後に、私は葉山さんを下書きにした「わが悪霊」(『日本文学』創刊号、一九三八年五月)という短い小説を書いた。まぶしいばかりの容姿と才能をもった先輩が、突然村に帰ってきて、田舎育ちの少年をとりこにする話だが、葉山さんは私にはそんな人だったのである。
私は豊津中学を出て、東京で知り合いになった友人に誘われて北海道に渡った。その間も葉山さんとは通信を続けていたが、北海道を引き揚げるとすぐに、当時名古屋で新聞社に勤めていた葉山さんのところに身を寄せた。そして葉山さんたちが進めていた社会主義運動に加わって、労働組合運動の下働きなどをした。
大正十二年だったかと思う。葉山さんは、私を運動資金調達の口実をもうけて郷里へ帰した。「第一次共産党事件」は、その留守の間で起こった。葉山さんは名古屋の党員として検挙された(後に葉山さんからその経緯を聞いたが、私は葉山さんの配慮で難をまぬがれたのであった)。まもなく葉山さんは、獄中で書いた作品「淫売婦」と、それに続く作品で文学的地位を確実なものとした。
私は葉山さんの勧めで上京した。当時社会主義文学の唯一のとりでだった労農芸術家連盟(機関誌『文芸戦線』)に加盟するため審査委員会に小説を提出したのも、所定の推薦者のあっせんをしてくれたのも、すべて葉山さんのはからいだった。私の第一作はたいしたものではなかったのに易々と審査会を通過したばかりか、なかなかの好評だった。
その後、日本は軍部独裁の末、世にも愚かな戦争を始め、亡国となったことは御承知の通りである。その間にあって、社会主義文学運動は弾圧されるとともに、守るべき陣営を自ら弱体化する分裂を繰り返した。戦争はいよいよ激しくなって私は秋田に疎開し、葉山さんは木曽に去った。そして村の移民団とともに旧名満州に渡ったもののいくばくもなく敗戦となり、葉山さんは引き揚げ途中の無蓋貨車の上で亡くなった。ミゼラブルなその状況を付き添っていた娘さんから聞いた。

(三人の会編『葉山嘉樹・真実を語る文学』花乱社刊より)
 第3回芥川賞作家・堺利彦農民労働学校講師
 鶴田 知也(故人)